~2024京都52🌟2024年の夏休みの振り返りです
銀閣寺に行きまして、
次は下鴨神社へ。当初の予定どおりです。
正式名称は「加茂御祖(かもみおや)神社」。銀閣からのバスの都合で北側(西参道)からINしました。

看板で見ると、左の駐車場上の道から入ってくる形ですね。

いにしえからの神社です。1983年(昭和58年)に史跡に指定された時の看板に、来歴が書かれています。

史跡 賀茂御(み)祖(おや)神社境内 昭和五十八年三月二十九日指定
賀茂御祖神社(通称下鴨神社)は、「山城国風土記」逸文に祭神の賀茂建角身命、玉依媛命の神話伝承が、そして「続日本紀」に賀茂祭のこと、さらに「社記」には崇神天皇時代の記録などが記されるように、古くからの大社であった。また、玉依媛命の御子神は、賀茂別雷神社(通称 上加茂神社)に祀られている
境内の糺(ただす)の森は、鴨川と高野川の合流する三角州に山背盆地の植生を残す貴重な森林で その美しさは古くから物語や詩歌にうたわれてきた。
社殿の造営は、「社記」に天武天皇六年(六七七)のこととされ、長元九年(一〇三六)には、二十一年ことの式年遷宮が定められた。現在の社殿は江戸時代の造替で、両本殿が国宝、他の社殿五十三棟は重要文化財である。
平安京遷都以降は、皇?鎮護の神、加茂皇大神宮と称され、全国に六十以上の庄園を持ち、山城国の一の宮、全国加茂神社一三〇〇社の総本社として広く崇敬されてきた。弘仁元年(八一〇)には、賀茂斎院の制が定められ、皇女を斎王として三十五代約四〇〇 年間加茂社の神事に仕えさせられた。斎院御所は、この糺の森の北西に、常の御所は、紫野大宮に設けられていた。
また、桓武天皇が延曆十三年(七九四)平安遷都祈願の行幸をされて以来、歴代天皇、上皇 、関白などの賀茂詣も盛んであった。
さらに、毎年五月十五日に加茂祭(葵祭)が行なわれ、この祭は、「源氏物語」をはじめ王朝の文学、詩歌にその華やかな行列の様子が描かれ、単に祭と言えばこの葵祭を 指すほどの盛儀で、その起元は、欽明天皇五年(五四五)にさかのぼる。また、御蔭祭(みかげまつり)騎射(流鏑馬)、蹴鞠、歌舞など千数百年伝承されている神事も多い。
このたびこのような加茂御祖神社の歴史的意義を重視し、境内全域を国の史跡に指定して保存することとなった。
昭和六十一年三月吉日
文部省
賀茂御祖神社
さらっと、すごい来歴を記しています。ここやHPに出てきている年号を見ると、↓こんな感じ。B.C.658は、えっと、縄文時代ですね。
西暦 | 元号 | 出来事 |
---|---|---|
B.C.658 | 神武天皇2 | 御祭神の伝承 |
B.C.580ごろ | 綏靖天皇 | 御蔭祭の始源・御生神事、始まる |
B.C.90 | 崇神天皇7 | 神社の瑞垣を修造 |
545 | 欽明天皇5 | 葵祭の起源 |
677 | 天武天皇6 | 社殿の造営 |
698 | 文武天皇2 | 葵祭り警備命令の記事 |
794 | 延暦13 | 桓武天皇が平安遷都祈願で行幸 |
810 | 弘仁元 | 賀茂斎院の制を定める |
1036 | 長元9 | 21年ごとの式年遷宮を定める |
祭神は加茂一族の祖神です
祭神 | 略歴 |
---|---|
賀茂建角身命 (かもたけつのみのみこと) | 古代京都を開いた。八咫烏に化身し、神武天皇を勝利に導いた |
玉依媛命 (たまよりひめのみこと) | 加茂建角身命の娘。賀茂川で身体を清めていた際に拾った矢を持ち帰ったところ懐妊。賀茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)を出産 |
なかなか、古そうですね。
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